『神門郡(かむどのこほり)とオオクニヌシ命』

                        平成26年7月25日
まず、神門郡(かむどのこほり)には、三つの郷(さと)に3柱の姫神がオオクニヌシと関わったことが出てきます。
最初に、朝山郷(あさやまのさと)に真玉着玉之邑日女命(マタマツクタマノムラヒメ)がいたとされ、・・・「天の下をお造りになった大神、大穴持命(オオクニヌシ)が結婚なさって、朝ごとにお通いになった。だから朝山という。」・・・とあります(68ページ)。
次に、八野郷(やぬのさと)に八野若日女命(ヤノノワカヒメ)がいたとされ、・・・「天の下をお造りになった大神、大穴持命が結婚しようとなさって、屋(一緒に住む宮)を造らせなさった。だから八野という。」・・・とあります(69ページ)。
さらに、滑狭郷(なめさのさと)に和加須世理比売命(ワカスセリヒメ)がいたとされ、・・・「天の下をお造りになった大神命が、結婚してお通いになった時に、その社(やしろ)の前に岩があり、その表面がとても滑らかだった。そこで、滑らかな岩だなあとおっしゃった。だから南佐(なめさ)という。」・・・とあります(69ページ)。
さて、ここからどんな想像ができるでしょうか。様々でしょうが、一緒に考えてみましょう。
まず、オオクニヌシが「通った」という点に注目して見ると、オオクニヌシの本拠地は神門郡ではなく、日毎(ひごと)に通える他(ほかの)の郡(こほり)にあったと想像できないでしょうか。とすれば、神門郡の東隣りの出雲郡ではなかったかと考えることができます。
次に、神門郡の朝山郷、八野郷、滑狭郷、また他の郷にも有力といえる男神がいたと思われるのですが、なぜ、そうした「地元の」男神と結婚せず三つの郷の姫神がオオクニヌシと結婚したとされているのかという点も想像に値することではないでしょうか。
そこで、そもそも「神門郡」という名前がどうして付いたのかを確認してみましょう。次のように書かれています。
・・・「神門と名づけるわけは、神門臣伊加曽然(カムドノオミイカソネ)のときに、神門を奉った(貢りき・たまわりき)。だから神門という。」・・・とあります(68ページ)。
「神門」とは加藤義成先生によれば、「鳥居であろうか」とされています。しかし、誰に、あるいはどこに対して、あるいは何の目的で「奉った(たてまつった)」のか、書いてありません。
私は、3柱の姫神と同様に、神門(鳥居)もオオクニヌシの宮、あるいはオオクニヌシの本拠地に対して奉(貢)られたと想像したいと思うのです。そして、オオクニヌシの宮、本拠地は出雲郡にあったことが、これらから推測できるのではないかと思うのです。
以上のことは、出雲郡が神門郡よりも優位な立場にあったことを示すものですが、具体的に、どうして優位な立場にあったのかを考えてみましょう。
まず、農業生産力です。神門郡は神門水海を抱え、さらに斐伊川・神戸川が流れこむ低湿地帯と、園の長浜に代表される砂丘地帯にあります。一方出雲郡は荒神谷遺跡の青銅器群が示すように、早くから灌漑(かんがい)事業に成功し、豊かな富を蓄えていた地域という優劣の差がありました。
次に、そうした農業生産力を支えるための「神祭りや信仰」も、出雲郡では盛んだったはずです。そのことが、神名火山(仏経山)や、そこに祭られる神(キヒサカミタカヒコ)が出雲国造の祖とされていることなどにあらわされています。さらにこうしたことを背景に、出雲郡は神門郡よりも政治的な統合(力のあるクニの建設)も進んでいたはずです。
こうしたことから、神門郡は出雲郡の首長や人々の助力を受けていたと考えられるのです。そのお返しとして、3柱の姫神をオオクニヌシの妻神としたり、神門(鳥居)といったものを奉ったということが、語り継がれて『出雲国風土記』の内容となったのではないでしょうか。
すでにお分かりでしょうが、オオクニヌシの宮、本拠地は、「風土記以前は」、現在の出雲大社がある場所(杵築郷)ではなく、「出雲郷」(加藤先生によれば斐川町富村・求院・出西・神守あたり・・・55ページ)、すなわち神名火山(仏経山)周辺だったことが推測され、神門郡の人々も西方から神名火山(仏経山)を仰ぎ見ていたと考えられるのです。
さて、神門郡には、あまり気付かれていないのですが、オオクニヌシとの関係で不思議な記載があります(72ページ)。そこには次のような記載があります。
・・・『吉栗山(よしくりやま)。檜(ひのき)・杉あり。いわゆる所造天下大神の宮材(みやぎ・宮殿や神殿を造る材木)造る山なり。』
・・・『宇比多伎山(うひたきやま)。大神の御屋(みや・ごてん)なり。』
・・・『稲積山(いなづみやま)。大神の稲積(収穫した稲穂を積み重ねたもの)なり。』
・・・『陰山(かげやま)。大神の御陰(みかげ・髪飾り)なり。』
・・・『稲山(いねやま)。大神の御稲(みいね)なり。』
・・・『桙山(ほこやま)。大神の御桙(みほこ)なり。』
・・・『冠山(かぶりやま)。大神の御冠(みかぶり)なり。』
これらはどうした意味なのでしょうか。ここに出てくるのはすべて神戸川と神戸川支流の山々ですが、それら山々が神殿であり、稲であり、髪飾りであり、桙であり、冠とされているのです。
荻原千鶴先生は、「この地(神門郡)における大神(オオクニヌシ)への信仰の篤さ(あつさ)を物語っている。」とされ、これらの地が「大神にとってのひとつの安らぎの空間であったのかもしれない。本郡の郷名に大神の妻問い伝承が多いのもうなづける。」とされています。
しかし、そうだとすれば、もっと他の郡や郷にもこのような記載があってもよいはずですが、そうではないのです。なぜでしょうか。調べてみる必要がありそうです。
ところで、神門郡では、三ヶ所の郷もの姫神を妻神にしたオオクニヌシですが、実は、出雲郡では振られている(妻神にできなかった)のです。その記載が宇賀郷(うかのさと)にあります(56ページ)。
・・・「天の下をお造りになった大神の命が、神魂命(カミムスビ)の御子、綾門日女命(アヤトヒメ)に求婚なさった。そのとき、女神が承諾せずに逃げ隠れなさったときに、大神が伺い(うかがい)求められたところが、この郷なのだ。だから、宇加(うか)という。」・・・とあります。
それにしても、神門郡での求婚話は成功した話ですから、そのような伝承があるとして記載されて当然かもしれませんが、綾門日女命に求婚したがオオクニヌシが失敗したという伝承を、わざわざ記載する必要があったのでしょうか。そもそも、綾門日女命はなぜ隠れたでしょうか。
そして、宇賀郷の地名起源を、「大神が伺い(うかがい)求めたから(うか)だ」、などと、こじつけのような話にしているのも、おかしなことではないでしょうか。
この「うか」は、『古事記』によれば、スサノヲが、娘であるスセリヒメと、その夫となるオオクニヌシに向って・・・「出雲なる宇迦能山(うかのやま)に大きな宮をつくり、世をしずめて、そこに居れ」・・・といったことから来ている立派な物語なのです。
『出雲国風土記』が、そのような『古事記』の物語をしりぞけて、なんとも大神(オオクニヌシ)にとって、情けない話しとして記載しているのは、不思議だといわざるをえません。



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