出雲ブームは、過去にも何度かあった』
                                                                    平成27年2月27日


 出雲大社の平成の大遷宮の効果で、全国からたくさんの人々が出雲を訪ねています。一種の「出雲ブーム」と言ってもよいのではないでしょうか。
 しかし、過去にも何度か全国で出雲が注目され一種のブームになったことがあります。古代では「奈良時代後半から、平安前期にかけて」、近世では「江戸時代の初期」、そして近代では「明治時代の初期から中期にかけて」、という三度の全国的な「出雲ブーム」があったと思われます。


 最初のブームは、『古事記』(713年)・『日本書紀』(720年)、そして『出雲国風土記』(730年)が完成し、出雲国造が『神賀詞(かむよごと)』を朝廷に奏上(716年)するようになった頃の時代です。


 『古事記』が出来上がる少し前に、斉明天皇(在位655年〜661年)は出雲大社の修造を命じました(斉明紀5年)。このときの修造によって現在の出雲大社の原型である巨大な社となったともいわれています。


 やがて、「神代の巻」の三分の一が出雲神話で埋められている『古事記』が登場し、少し後に、同じく出雲の神々をたくさん載せた『日本書紀』が登場し、さらに出雲の地理や伝承を載せた『出雲国風土記』が登場するのです。


 そして、オオクニヌシが天孫に国を譲ったと書いてある『古事記』・『日本書紀』の内容をなぞるように、出雲国造はその代替りの際には、朝廷に参上し、『出雲国造神賀詞』を奏上して、朝廷への服属を誓うようになりました。


 こうした事は、朝廷に関係する人々のみならず、一般の人々にも出雲への関心を大いに高めたはずです。松前健先生は、この頃から『出雲巫覡(いずもふげき)という出雲国造を総師とする集団が、出雲信仰を中国・近畿・東国にと広めていった』(出雲神話より)とされています。一種の出雲ブームが起こっていたといって良いのではないでしょうか。


 次のブームは、松平直政が、松江藩主になった(1638年)頃から始まるブームです。松平直政は、出雲大社への関心が深く、何度も訪ねたとされています。ある時は、出雲大社のご神体が見たいといって、国造が止めるにもかかわらず本殿に上がると、そこには巨大なアワビの殻があり、それを見たとたん、アワビの穴から八尋(やひろ)の大蛇が出てきたので、あわてて退散したと言われています。


 松平直政は、出雲大社の修繕の必要性を感じ、徳川将軍にその旨を伝えると、将軍家は、全国に向けて修繕費用の調達を命じています。これが、直政の次の藩主による造営につながり、寛文7年(1667年)の寛文の大遷宮となります。今のご本殿は、この時の遷宮の物なのです。


 当然、出雲大社自体も費用の調達に走ります。この時、京都や、江戸で活躍したのが出雲大社の下級神職である、御師(おし)といわれる人達です。御師は時には巫女などを伴い、京都や江戸そして全国へと散らばり、出雲大社のお札や、縁起物と引き換えに、修繕費用を調達したのです。


 京都で、出雲の阿国(おくに)が有名になったのも、御師とともに、巫女として京に上り、巫女踊りをしていたのが、だんだんと評判が出るにつれて、踊りや衣装が派手になり、歌舞伎の始まりとなったとも言われているからです。同じく御師たちは、出雲の神話やオオクニヌシを初めとする神様の話を宣伝し、人々の出雲への関心を高めたのです。この頃の絵図は、現在もたくさん残っています。


 オオクニヌシが縁結びの神だとか、スサノオが災いを防ぐ神だとか、えびす様が豊漁の神だとかといったことは、こうした時代に全国に広く伝えられたのです。出雲大社の寛文の大遷宮の時にも、出雲ブームが起こっていたのです。


 出雲のブームは明治の初期にも起こりました第80代国造千家尊福(たかとみ)公による活躍と、その布教によるものです。千家尊福公は、全国に御師を派遣するとともに、自らも布教のため各地に出かけました。


 原武史先生は、「尊福公の権威は絶大で、天皇のそれにも匹敵するほどのものだった」とされ、各地で「神」として迎えられたとされています。「東京曙新聞」という新聞は、1876年の10月のこととして、尊福公が伊予松山のある村に一泊したところ、数百人もの人々が集まり、尊福公が、ちょっと座った新薦(こも)を打ち寄ってつかみ合って持ち帰り、また、入られた風呂の湯は各々徳利に入れて持ち帰り一滴も残らなかったと書かれています。


 原先生は、『人々は始めて見る「生き神様」の姿に驚嘆し、オオクニヌシの神徳を訴える尊福の主張に熱心に耳を傾けた。この中から尊福の主張に共鳴する「出雲派」とよばれる人々が出てくるのである。』(「出雲という思想」より)とされています。


 やがて、尊福公は「出雲大社教」を設立し、その初代管長となり、各地に「分詞」を造りました。この時代にも、出雲ブームがあったのです。


 今回の遷宮にも、そこの氏子の人々から多くの寄付が寄せられています。そもそも考えてみるに、同じ大社とされている、例えば、春日大社、諏訪大社、住吉大社などに大がかりな遷宮があったとして、全国からこれほど多くの人々が訪れるでしょうか。


 この現象は、今回だけでなく、古代から明治に至るまでの間に全国に巻き起こった出雲ブームが根底にあるように思うのです。観光などという分野だけでは説明できない、奥深い出雲の歴史、文化、信仰があるからだと思うのです。




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