日御碕神社の謎
平成27年4月24日
『出雲国風土記』の「出雲郷」の中に「美佐伎社」という神社が載っています(57ページ)。
しかし、そこには何の解説もありません。
日御碕神社は、島根半島の西端にある神社です。この神社の祭神は、「日沈宮(ひしずみのみや):天照大御神(アマテラスオオミカミ)、神の宮(かみのみや):素盞嗚尊(スサノオノミコト)」とされています。
「日沈宮」の由緒には、・・・『神代の昔素盞鳴尊の御子神天葺根命(又天冬衣命と申す)清江の浜に出ましし時、島上の百枝の松に瑞光輝き『吾はこれ日ノ神なり。此処に鎮りて天下の人民を恵まん、汝速に吾を祀れ。』と天照大御神の御神託あり。命即ち悦び畏みて直ちに島上に大御神を斎き祀り給うたと伝う。』・・・
また、・・・『「日の出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り、出雲国日御碕清江の浜に日沈宮を建て日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん」と天平七年乙亥の勅の一節に輝きわたる日の大神の御霊顕が仰がれる。かように日御碕は古来タ日を鎮める霊域として中央より幸運恵の神として深く崇敬せられたのである。』・・・とあります。
「神の宮」の由緒には、・・・『神代の昔、素盞鳴尊出雲の国造りの事始めをされてより、根の国に渡り熊成の峯に登り給い、柏の葉をとりて占い「吾が神魂はこの柏葉の止る所に住まん」と仰せられてお投げになったところ、柏葉はひょうひょうと風に舞い遂に美佐伎なる隠ケ丘に止った。よって御子神天葺根命はここを素盞鳴尊の神魂の鎮ります処として斎き祀り給うたと伝う。』・・・とあります。
今日の神社のようになったのは、徳川三代将軍家光公の命で、日光東照宮建立の翌年、寛永十四年より幕府直轄工事として着工され、七年の歳月をかけて建てられたというものですので、桃山時代の面影を残す精巧な権現造りとなっており、出雲で見かける大社造りの神社とは趣を異にしています。
しかし、『出雲国風土記』では、「美佐岐社」とあるだけです。そして本来は、島根半島の西端に位置する海人(あま)族たちが奉じる質素な産土(うぶすな)神社だったのではないかとされています。そして、その社はウミネコの繁殖地として有名な経島(ふみしま)にあったのではないかとされています。
しかし、それがいつの間にか全国でも珍しくアマテラスとスサノヲが同じ境内に祀られているという神社になり、さらに、・・・『伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り』、『日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん』・・・といった神社になったのです。
しかし、『出雲国風土記』が書かれた時代の出雲の人々の心の中に、そのようなものがあったのでしょうか。日御碕神社の由来は、朝廷人が『古事記』・『日本書紀』を土台として、道教・陰陽道の方位思想による東は吉、西は凶といった当てはめから、「日沈宮」を創作したと思われます。美佐岐社が『日の本の夜を護らん』とされたことは、出雲の人々にとってまさに驚きだったのではないでしょうか。
さらに、なぜ将軍家光が日光東照宮を造った翌年に日御碕神社の造営を思い立ったのでしょうか。ある説では、家光は江戸から見て鬼門に当たる北東に東照宮を造り、同じく凶の方向に当たる西北に日御碕神社を造って江戸の護りとしたのではないかともされています。
また、スサノヲを祭る宮が「上の宮」とされ、西向きであること、アマテラスを祭る宮が「下の宮」とされ、出雲大社の方向を向いていることにも、何か訳があるのでしょうか。いろいろと想像してみましょう。
桜門
神の宮(上の宮)
日沈の宮(下の宮)
経島