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神社様式の源流

1月30日

前回、『神社の起源として、わが古典によれば、「天つ神籬(ひもろぎ)・天つ磐境(いはさか)」とされる。この広義の「天つひもろぎ」を形成させる物資は、多種多称でありうる。しかし、この熊野大社に限らず、出雲系ないし国つ神系の由緒ある神社の原像としては、自然石に基く磐座(いはくら)であることが、はなはだ多い。』
これは、中央大学名誉教授の中西旭先生の論文からの引用です。というお話をしました。

 
でも、神社にあるのはご本殿だけではありませんね。鳥居、しめ縄、千木、玉垣などなど、いろんな仕掛けがあります。では、それらは、日本独自のものでしょうか。
 
鳥越憲三郎先生は、その源流(おおもと)は、中国の江南や、東南アジアなどにあるとされています(『古代中国と倭族』)。今日は、鳥越先生の指摘を中心に考えて見ましょう。
 
まず、『ご本殿』のある場所がどうして選ばれたのか。鳥越先生は、『新しい村長を選ぶにあたって、まず世襲の村長が選ばれる。・・・その世襲の村長は村の祭祀権と行政権を掌握する。それは神の代行者としてである。そして、村長とその古老たちによって住むべき適地が見つかると・・・その中で神が天から降臨するのにふさわしい一本の聖木が選ばれる。』
『この聖林・聖木は、洋の東西を問わず、あらゆる民族に共通して見られるものであるが、わが国では周知のように「神奈備山・三室山」と呼ばれた円錐状の整った山、または樹木が選ばれ、その中の巨樹や巨岩を神の鎮まるところとした。そして後に、社殿が設けられると、それが神社と称されることになる。』・・・とされています。
 
次に、『鳥居』はどういうものでしょうか。鳥越先生は、『春を迎えると村びとは協力して住居や穀倉の建築にとりかかる。そして、種まきの後に村の出入り口に「村の門」をつくる。』、とされています。何のために作るかというと、『この門は村で一番たいせつなもので、村びとの願いが集まっています。どうか、悪鬼や悪霊がこの門から村に入らないようにして、村びとの健康を守ってくださいと祈る。』とされています。
 
さらに、その門の上には、数羽の木彫りの鳥が置かれます。これは、『その鳥が、神が村びとの守護のために天から降臨するための乗り物だとされているからだ。』とされています。
『しめ縄』は、どういうものでしょうか。鳥越先生は、『しめ縄は「締め縄」のことであり、悪鬼、悪霊を就縛(しゅうばく・からめしばる)道具だ』とされています。そして、その綯い(ない)方は、日常のものとは異なり「左綯い」(出雲大社の綯い方)とされているということです。
『千木(ちぎ)』についてはどうでしょうか。鳥越先生は、『妻側の破風板が伸びて千木となった。』、あるいは、『屋根の両面の茅を押さえる竹が棟の上で交差して千木組となった。』とされています。
 
さて、今日の神社にも見られるこれらの特徴は、稲作文化に由来するとされます。中国には二つの大きな文明があったとされています。ひとつは、黄河(こうが)流域の黄河文明、もうひとつは、揚子江(ようすこう)流域の長江(ちょうこう)文明です。
 
畑作が中心の黄河流域には、これまで述べたような特徴はなく、稲作が中心の揚子江流域、そして東南アジアには、共通してこのような村落が見られるとされています(写真参考)。
 
特に、茅葺の高床式家屋は稲作と切っても切れない関係だとされています。私たちが良く史跡公園などで見る竪穴式住居は、縄文・畑作地域の家屋様式であり、稲作が発展した弥生・稲作地域では、高床式家屋が中心となったとされています。
 
稲作地域でなぜ高床式家屋が採用されたかは、斐川町の様子を想像してもうなづけることが多いと思います。
 
こうした、村や村びとを、外部からの悪鬼・悪霊・邪気から守り、より多くの収穫を神に祈るといった習俗が、やがて村の中心となった祭りの場としての神社に採り入れられて、整えられていったと考えられるのです。
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